思えば、家庭教育とは恐ろしいほど人生を左右するものです。知らず知らずのうちに、余計な荷物を背負わされてることがあります。

私の場合、親から、父方の先祖は○○、母方の先祖は○○なのだから、誇り高く生きなさいと言われてきました。命のルーツであるご先祖には感謝しておりますが、それを思うたびに、私は自分の現状の小ささに、逆に卑屈になっておりました。

さらに、親の代からやっていた新興宗教(旧統一教会ではありませんが)の影響を受けておりました。この教団とのご縁は父が、戦後の混乱期に人生のどん底だった時、救済して頂いたことが始まりです。子孫として、そのことには感謝しております。ですが、一度ご利益を頂いたら生涯、ご恩に報いる人生を歩まされるのがこの新興宗教でした。いつのまにか我が家の家訓は、新興宗教の教えそのものとなっておりました。教義には、愛だ平和だ和合だとありますのに、それがいつも、家庭内不和の火種となっておりました。

血筋へのプライド、周囲への見栄、特に、宗教をやっている家は、はた目にも幸せ(裕福、繁栄、品行方正、家庭円満など)でないと、教団の神様に申し訳ない。我が家の不幸は、きっと信心が足りないからなんだ!という、今思えば本当におかしな考えを、普通に持っておりました。

ふと気づくと、この新興宗教をやっている家庭は、どこも不幸でした。不幸ゆえに、教団の神様にすがる。そのたびに教団の指導者は、「めぐり(罪障)がとれるまでの辛抱だ。祈りなさい。すべては神様の試練だ。これで魂が磨けるのだ。そのためには奉仕活動(布教、献金、教団の行事参加等)が、なによりの近道だ。それができることが、神様の恩寵なのだ。」とのことでした。

それって、絶対におかしい。と、思えなくなってしまうのが新興宗教の恐ろしい罠です。集団で催眠術にかかったようなものです。思えば、信徒が本当に幸せになってしまったら、ご祈祷も献金もしなくなってしまうでしょう。生かさぬよう殺さぬよう、不幸にしておかないと、教団職員の給料も出せません。

約10年前、ついに当家はこの宗教団体と縁を断ちました。母は「そんなことしてバチがあたるのでは」と心配しましたが、何も起こりませんでした。

宗教の 鎖を解いて 日本晴れ

神様に祈りたければ、近所の神社がある。ご縁のあるお寺がある。これで当家も、普通の人となったのでした。

そして今では、プライドも見栄も気にせずに、こんな本音丸出しのブログを書けるようになりました。あの頃より100倍以上、幸せです。

苦しいときは、心の荷物をぶん投げてやりましょう。たとえ一人ぼっちになったとしても、それなりに人生楽しめるものです。ぶん投げたことが無い人だけが、まだ来ぬ未来を心配します。

本日もご覧頂きまして、ありがとうございます。